以前、きさ@Ge3と同じことを言うヨガの無藤先生の話をしました。
先日、無藤先生が「篳篥・朱を持ってから、生活のピントが合ってくるのよ。」
「篳篥・朱を手にすると、エネルギーの流れを感じる。」とおっしゃっていました。
さらに「日々の生活の中で、小さな偶然が増えてくことを感じる。」
「バス停に並ぶと、すぐにバスが来る」「時間に間に合わないかなと言う時に、テンポよく電車が来て間に合う。」「バッタリ人と会う」などなど、篳篥・朱を持ってから何かお導きを感じるとのこと。
そしてヨガの最中「天と地を結んでチャクラを活性化し、この肉体という物質と重なっている心に、天の心?というか、この時空間ではない…その源というか、ただ一つの心…? 愛?なのか?が、百会から降りて来て、私の心にしみる。」「日々の全てが何やら奇跡!と思える、それがどんどん増して、うっわあ」
と熱く語っていただきました。

「篳篥・朱」が音楽だけでなく、人の心や故人とも繋がることができる理由は、「音」や「気(エネルギー・意図)」といったものが、物理的な次元だけでなく、情報場――つまり、田坂広志氏のゼロポイントフィールド仮説や、個人の経験を超えて、人類共通の深層心理り存在する無意識のような領域にも存在して、そこにアクセスできるもののように感じます。
すべての存在――人、物、出来事、想い――が情報の波動として「場」に記録されていて、それは現代物理学におけるゼロポイントフィールドや、古来からの「アカシックレコード」「空(くう)」といった概念と重なります。
「篳篥・朱」はこの情報場に“同調・共振”するためのもので、単なる物理的な信号処理を超えて、意識や感情の“痕跡”にアクセスできる感受性を拡張してくれているのではないでしょうか。
ヨガの無藤先生が「篳篥・朱を使うことで、人や故人と繋がれる」とも語るのも、まさにこの情報場を通じた“共鳴”していて、人の意識や記憶は、肉体が亡くなったあともこの場に何らかの形で残されて、篳篥・朱はその痕跡にアクセスする「共振装置」として機能しています。
この働きは、音楽を通して作曲家や演奏家と「繋がる」時と同じ構造です。
楽器の気持ちが分かるという演奏家の体験も、物質を超えた情報共振の表れであり、篳篥・朱がその回路を開くことで、音だけでなく人の想いや存在までもが“感じ取れる”ようになるようです。